- 由緒
創立年月日不詳。延喜式神名帳に記載なきも嵯峨天皇の弘仁式の主税帳に陸奥国正税六十萬三千束(中略)鹽竈神祭料一萬束云々と見ゆ。国史所載 一宮諸社根源記・諸国一宮神名帳一宮記等何れも当社を以て陸奥国一宮となす。旧社格国幣中社、明治7年12月5日列格。当社はもと社名を鹽竈宮・鹽竈明神・或は鹽竈六所明神とも称し(社蔵古文書棟札名)、祭神にも諸説ありしが今鹽土老翁神(別宮)・武甕槌神(左宮)・経津主神(右宮)の三神を祀る。社伝に依れば太古天孫降臨に先立ち武甕槌神・経津主神の二神、この国土を平定せらるるに当り、鹽土老翁神を先導として、この地に上陸せられ服はぬ者を平定し給い、二神御帰還の後鹽土老翁神は此の地に留まり給いて、広く生業を授け鹽を焼くことを教えられ、至大の恩沢を垂れ給う。爾来この三神を奉祀し鹽竈大神と称号すと云う。延命長寿・産業開拓・海上及び安産守護の神として、又武神として御神徳高く広く全国より崇敬を蒐め給う。後一条天皇の寛仁元年9月天下の諸名社と相並び一代一度の奉幣に預る。(左経記)、文治2年鎮守府将軍秀衡安堵状を下し(社蔵古文書)翌3年藤原忠衡鉄燈を寄進した。奥州の藤原氏滅亡の後は鎌倉幕府崇信を捧げて社領を安堵し室町以後は足利氏・斯波氏・吉良氏等崇敬の誠を捧げざるなく(社蔵古文書)降って江戸時代慶長年間伊達政宗造営を行い、元禄の末伊達綱村別宮拝殿・中門・楼門等社殿の造営に着手し、吉村の宝永元年竣工の功成る。現在の社殿がこれである。尚吉村は社領を寄進し、神官28人を置き別当法蓮寺及び十二坊を定め社運を復興す。桜町天皇の延亨元年正一位の神階を奉授され、明治7年12月国幣中社に列格す。神社本庁別表神社指定。平成14年(2002)に本殿以下14棟の建物と石鳥居1基が国の重要文化財に指定された。なお、宝永期以降二十年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。
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