- 由緒
人皇十二代景行天皇の御代、第一皇子である日本武尊が勅命を受けて東征の際当地に到り、古来の聖地であった此の大森山の山懐に祭場を設け、皇祖廼邇邇杵命を祀って、当地が平和であることを祈った。日本武尊が都への帰途に薨去されたので、天皇は勅して(命じて)此処に邇邇杵廼命に併せて日本武尊の神霊を鎮祭せられたと社伝として伝えている。後に素戔鳴命、鹽土老翁命、大己貴神、少彦名命の四神を併せて祀っている。また明治42年4月白山社を館島田から、熊野神社を桜井から、水神社を清水田から、館稲荷神社を館島田から合祀して、菊理媛命以下八神を祭神に迎えられた。古来伊具郡惣社とされ、明治5年郷社に列せられており、郡内全ての神社のご祭神を拝することの出来る神社とされた。平安時代には、南方の小斎に鹿島神社(武甕槌命)、北方の尾山大谷に香取神社(経津主命)が鎮座していて、廼邇邇杵命が他界に降臨されるに際して両神が陪従せられたことによる配座とも伝えられている。時代が下って日本武尊の東征に際しては、香取神宮・鹿島神宮との関わりあり、当地の三社においても神事の上で深い関わりが残っている。創祀やご祭神に関わる伝えは以上のとおりであるが、当社は日本武尊東征以前にも産土神の聖地であったはずであるから、創祀の年代は特定不可能というべきであろう。平安時代に入って延長5年に延喜式が完成しているが、その中の神名帳には「小社」として当神社の記載あり、江戸に下って「伊具郡惣社」として郡内に神符ヲ頒布していた記録もある。当時(江戸時代)神輿渡御などの神事の際には、藩主の命を受けた金山本郷中島氏は、足軽4人を警護に付けたと記されている。当社では「神輿渡御には山家が来ないうちは発幸出来なかった。」と言い伝えていることから、派遣されたのは山家家を中心とする一団と思われる。明治3年郷社に列せられ、同40年3月幣帛供進指定社となる。通常「お日高さん」と親しみを以って呼ばれていて、享保に奉納された社額には「日髙宮」とある。安永風土記書上にも「日髙神社」の名で報告している。
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