- 由緒
寛永2年(西暦1625年、江戸時代)8月吉川従長の撰にかかる「縁起」によれば、後光厳院文和年中(北朝、1352~1355年)国司北畠顕家は報恩寺高達を従え越前の国府に戦い戦功の報賽に社殿を再建した。棟札に「亀岡山明神、文亀3年(1503年、室町時代)9月15日奉造立丹波遠近守正時」とある。又、黒川氏友、安房守氏時北方などの崇敬あり。古く大亀大明神、岩下明神と称したが、明治のはじめ今の社号に改め、同5年1月村社に列し、同40年3月幣帛供進社に指定された。同42年に7社を合わせ祀る。また、当社は永代神楽があり、弘化5年(西暦1848年)より始めて今日に至っている。当社には、大干ばつの際に黒川郡内こぞっての雨乞いを行っている。その記録によると、寛永6年(西暦1853年)7月9日より三日三夜大肝入遠藤周右衛門はじめ郡内一同参詣し、13日には降雨があったため御礼として本社屋根の葺き替えを奉仕した。さらに元治元年(西暦1864年)5月23日、大肝入遠藤周右衛門はじめ組頭、大亀村肝入小嶋庄衛門、同村組頭佐藤長五郎他か各村より参詣。24日に降雨があり、その御礼として拝殿を建立した。別当 名取郡高柳 植村右近 慶応元年5月5日棟上 宮城郡国分福岡 大工 徳三郎。現在の社殿は、明治37年(西暦1904年)10月5日、灯明から出火して全焼したため、明治38年(西暦1905年)5月27日に新築したものである。
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