- 由緒
この地(黄金迫)は古の小田郡に属し、聖武天皇21年(749、奈良)春陸奥守百済王敬福はじめて黄金を得て2月貢し、同年壬5月金を出した山ノ神の神主小田郡日下部深淵に叙位したことが「続日本紀」に見えているので本社の創祀は蓋しこの年になされたものである。延喜の制小社に班す。天正18年(1590、桃山)3月野火のため社殿鳥有に帰したが3年後の文禄2年再建、後久しく荒廃して寛政・享和のころには年々の祭礼は行われず、往来の道さえ絶え果て、礎石のみ存し空しく「黄金宮」の名だけのこっていた。しかるに文化10年4月伊勢白子の人沖安海いたくこれを憂い、社跡を実査の上、金三十両を献納し神社の再興の途をひらいた。文政天保の交村内に悪疫流行した。それは神事怠慢の神譴によるものと恐惶して村民相はかり天保6年彼の安海の献金を基金に神社再興に着手、同8年拝殿(現存)一宇を竣工した。本殿は明治4年4月愛宕神社(もと亘理郡に在り。天正12年亘理元宗の勧請、同19年字大崩に移社、邑主亘理家(伊達氏)の崇敬社である。明治42年5月字月浦の月山神社と共に本社に合祀する。)の本殿を改造したものである。これより先明治5年5月県社に列せられる。広大な境内地に黄金洗沢、黄金洗井があり日本最初の出金地といわれていたが、昭和32年社殿附近の発掘によって建物基壇が発見され、また箆書天平文字瓦・単弁重蓮華紋鎧瓦・唐草連珠紋字瓦・牡瓦など夥しく出土し、これら境内の遺構は、産金にちなんだ建物跡と考えられ、奈良時代の産金遺跡として、いよいよ歴史的意義が深く、昭和34年9月「産金遺跡」として県の史跡に、又、42年12月には「黄金山産金遺跡」として国の指定をうけた。なお拝殿前には大槻文彦博士の撰文「日本黄金始出地碑」(明治45)と山田孝雄博士揮毫の大伴家持の歌碑(万葉集巻十八所収)が立っている。
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