- 由緒
当神社は慶長10年、越後、柏崎の人、斎藤四郎兵衛和泉盛方が計仙麻(ケセマ)陣ケ保(現気仙沼市笹ケ陣)に移り住むとき屋敷内に紫明神と観音を勧請せしが五代又衛門の時火災にて御堂を焼失し、正保年中、六代又四郎が鼎ケ浦(気仙沼湾)海辺高台に屋敷を移し建てるとき、敷内に観音を祀り柏崎観音とした、故に今もその所を柏崎山と云う、また紫明神は地続きの西風釜(ナライガマ)鐙坂(アブミザカ)に鎮め祀りて分家に別当を命じた、今も分家斎藤家の屋号を別当と云う。紫明神の「むらさき」は斎藤家の家紋、藤の花の紫より名付けたと云う。昭和23年御社地を別当斎藤家より寄進され宗教法人紫神社となり、近辺、南町、柏崎地区を氏子とし、毎年の例祭はカボチャ祭りのむらさきさんと賑わっている。(カボチャ祭り)カボチャ(南瓜)まつりの起こりは定かではないが、言い伝えによれば、むかしはまつり師といって、祭りの山車等を作る職人がいた。紫明神の祭りに、そのまつり師の作った人形が境内に並べられたと云う、ところが江戸時代末期か明治時代初期のことか、折角準備した人形が火災により焼失したので、付近の若者たちが方々の畑より南瓜を集め来て、南瓜を頭にした人形を作り、境内に並べ飾ったことが大勢の人々の喝采を浴びたと云う、その時の美談や時代を諷刺したもの色々で、以来、祭りが近づくと、各地区の若者たちが出しものを秘密裡に作成しその出来栄を競った。現在も氏子地域、南町、柏崎青年会によって受け継がれている。
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