- 由緒
後冷泉天皇の康平3年(1060、平安)源頼義(陸奥守・鎮守府将軍、前九年の役)父子東夷征伐の際、常陸国村松に伊勢、賀茂、祇園、稲荷、春日の五神を勧請して戦捷を祈った古社(現茨城県那珂郡東海村村松に鎮座する村松大神宮)で、後花園天皇の永享7年(1435、室町)宍戸、佐竹、野口、永倉合戦の時、兵火に罹り、社・家等離散した。これを以って新に今の地を開いて遷座し、五社明神とも称されたが、その年月は詳らかでない。(或は、五柱の神体が筏に乗って、此の浜に漂着したとも伝え言う)。藩祖伊達政宗遊猟の際、此社に立寄って老翁から明神の由来を聞いて、社殿を改築し、爾来、伊達家の尊崇厚く、藩主忠宗、綱村、宗村、重村、慶邦に依って造営、再興補修が行われたことが棟札に明記してある。明治5年村社に列せられ、社号を現社号に改め、同41年には種次の稲荷神社、井土の八坂神社を合祀している。(社伝・封内風土記・棟札・社蔵記録等)。大正4年11月幣帛供進社に指定される。昭和27年「宗教法人五柱神社」となる(包括団体は「宗教法人神社本庁」)。境内に藤の古木が数種あり、神体漂着の際、乗って来た筏の藤に根が生じて繁茂したもので、藤塚の地名もこれに起因していることが社前の記念碑に記してある。藤蔓の間を潜ると疫病を免れるといって子供連れの参詣者が多い。現在は、藤塚鎮座の守護神五柱神社として信仰崇敬され、今日に至っている。
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