- 由緒
元禄11年(西暦1698年)、山火事により古記録等を焼失せるにより不詳なれども、社伝によれば、第55代文徳天皇の御世の仁寿2年(西暦852年)、現社家の遠祖穂積保昌が山城国(現京都府)よりこの地に来たり、里人に麻の栽培を教え、且、一族の尊崇せる日月星の三光神即ち天照大御神、天之御中主神、月読神の三神を清水湧く山峡の岩窟中に奉祀せしが本社の創始と伝える。社名・地名も麻の栽培より起り、神紋も又麻の葉を用いる。仙台藩封内風土記(西暦1772年成立)にも、「岩切邑 本邑山中青麻と号する地あり 往古この地麻を植う 故に以て地名と為す 岩窟あり高さ一丈余・・・」と記している。天和2年(西暦1682年)源義経家臣なりし常陸坊海尊(清悦仙人とも称する)下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し給いしにより併祀する。古来より中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)・海上安全(穂積一族が水運に携わっていたことに因む)等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難よりのがれる」と伝えられ、各地青麻神社の総本社である。古くは、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称し、中世から近世の古図や文献にも記載が見える。安永5年(西暦1776年)、現社家を遡る十代祖鈴木儀衛門は神祇伯白川家より神主許状と對馬の称号を賜る。その子対馬保義に至り、彌々青麻神社の奉斎と社地の整備さらに神徳の普及と講中の組織化と拡充をすすめ、傍ら、社入を以て青麻・入菅谷付近の山地に40万本余の植樹造林事業を起こして国用を助け、その功労は寛政13年(西暦1801年)・文化5年(西暦1808年)の二度にわたり仙台藩より褒賞に與っている。延享3年(西暦1746年)伊達宗村公を始め、宝暦8年(西暦1758年)重村公、文政元年(西暦1818年)斉村公、慶応3年(西暦1867年)慶邦公等藩主の御崇敬と御参詣もあり、崇敬者は東北全域関東信越さらには北九州にも及んでおり、今も各地に青麻信仰の石碑や御分社を見ることができる。享和年間に社殿を再興し、明治8年5月郷社に列格。大正5年より、大正御大典記念事業として社殿の大増改築を行い、神域荘厳を加える。昭和43年不慮の火災に遭い、社殿・随神門・神楽殿を失うも、同45年に現社殿等を完成する。昭和58年4月27日、泉市(現仙台市泉区)山林より出火の山林火災は、折からの強風に煽られ3300ヘクタールの山林を焼失する未曾有の災害にも、神威の御加護により社殿及び神楽殿は類焼をまぬがれた。現社務所は昭和59年4月、現随神門は平成12年9月の再建になる。昭和42年、県の明治百年記念事業として、付近の丘陵地一帯が「宮城県民の森」に指定整備され、大都市近郊にありながら人々の憩いの森として保護育成されるに至るは、真に御神縁の発露と畏むものである。
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