- 由緒
大崎八幡宮がこの地に勧請された経緯には2つの系譜があり、1つは福島伊達時代に始まる成島八幡が米沢へ遷り、更に仙台に遷されたというものである。もう1つは葛西大崎地方で篤く崇敬されていた大崎八幡の系統で、中世以来、水沢-田尻という線で結ばれ、米沢以後の居城である岩出山に仮宮を設けたものである。現在でも、田尻・岩出山の両地に大崎八幡神社が鎮座している。こうした流れを集結させたのが大崎八幡宮であり、仙台開府後直ちに仙台城の乾(北西)にあたる現在の地に御社殿を造営、慶長12年(1607)8月12日に遷座祭が齋行された。伊達家創始以来の伝統と信仰を基盤として、新たに町を開き時代を拓くに当り、城下の人々の平穏を導く「仙台総鎮守」としての役割を加えて創建されたものである。このような仙台勧請までの様子については、5代藩主伊達吉村公の命により制作された『大崎八幡来由記』に絵巻として残されている。仙台の地はもとは「千代」と呼称されていたが、開府に当り「仙台」へと改称されている。慶長13年(1608)頃に政宗公が詠んだ「入そめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいの松」という和歌は、「千代」と「せんだい」の語が織り込まれ地名の改称を暗示するとともに、新たな町の末永い繁栄への祈念が表現されたと解されている。「仙台」の語は中国唐代の詩人、韓翃の「同題仙遊観」作中の「仙台初見五城楼」、崔曙の「九日登仙台呈劉明府」、陳子昂の「登金華観」作中の「白玉仙台古」にみられ、各々、この世のものとは思えない理想の場の例え、仙人の住む高台、等と解されていることから、政宗公の壮大な理想が表現されていると推測される。御創建以来、藩政時代を通じ仙台藩62万石の総鎮守として重んじられ、明治以降は大崎八幡神社と称するも、平成9年6月、藩祖公御創建以来の歴史的経緯を考慮し社名を「大崎八幡宮」に復し、現在に至っている。例大祭は9月14、15日両日に行われ、14日は夕刻より長床西側の神楽殿にて能神楽が奉奏される。15日は神幸祭神輿渡御があり、氏子区域内を3行路に分けて年毎に巡幸する。還御の後、馬場にて御創建以来の由緒を持つ流鏑馬神事が齋行される。御鎮座以来、仙台総鎮守として藩祖伊達政宗公はじめ歴代藩侯はもとより、仙台城下の人々に至るまで広く厄除・除災招福や必勝・安産の神として篤く尊崇され、また仙台における卦体神という十二支の神を信仰する習俗においては乾(戌亥)の守り神とされ、戌歳・亥歳生れの人々からは格別の崇敬を受けている。こうした歴史的背景から、現代においても仙台市民をはじめとする数多くの崇敬者より心のよりどころとして仰がれている。
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