- 由緒
天平年中の創建の古社という。(口碑)。古記録は焼失の為、由緒は詳かではないが、藩政時代からは、次の通りである。伊達2代忠宗公の治世中、寛永13年(1636)~万治元年(1658)約20年の間に二十人町に弓組が置かれました。承応2年(1653)忠宗公が榴岡で弓の指南役屋崎隼人の射を見、その百発百中に驚き、弓組の矢先を守らせ給えと願い、その矢と屋崎にあやかるため崎をとり、矢崎明神を鉄砲町和光明神のとなり(二十人町地内現57番地附近)に創建せられ、二十人町に住む弓組足軽たちの守り神として崇敬されました。明治維新後、種々変遷があり、同明神境内地は村上留蔵氏の所有となりました。明治10年(1877)5月、文部省令により無格社神社として認可になり、同時に祭神として天照皇大神、倉稲魂命(作物の神)を祀り、二十人町住民を氏子として繁栄して参りました。明治23年4月、村上留蔵氏所有地より現在地二十人町37番地(176.7坪)に移りましたが、同31年3月31日夜、神社の一隅より失火、全焼し、同年8月新築落成遷宮し、社名を矢先神社と改めました。昭和20年終戦後、祭典は5月5日(こどもの日)とし、当日は氏子の子弟(主として小・中学生)による神輿渡御及び武者・稚子行列で賑わいます。昭和28年(1953)4月、宗教法人の認可を受け、昭和39年、40年に亘り町民館を建設、本殿並びに拝殿を耐震、耐火性コンクリート造りに改築し、町民館は各種会合に又文化、教養向上の一端として、書道・華道・詩吟・謡曲・民謡・舞踊等各種団体が利用しております。
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