- 由緒
仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建された。その後、平将春が陸奥国宇多群(現在の福島県)に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に3度目の御遷座が行われた。後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。そして、寛文7年(1667)7月25日に3代藩主伊達綱宗公の意志により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、この榴ヶ岡に御遷座された。当社の御祭神である菅原道真公(天満大自在天神)は、学問・政治の主祭神であり、また弘法大師、小野道風と共に、書道の三聖として詩歌・書道の神としても尊信されている。しかし、道真公の一生は波乱に満ちたもので、時の左大臣藤原時平の讒言により、大宰府へ配流され、悲壮のうちに亡くなられた。配流の地で亡くなられた道真公が、怨霊天神・火雷天神とも言われる由縁は、没後四十数年後に都に疫病や飢餓・落雷とともに降臨した事から、当時の人々が崇め祀るようになった為と伝え聞いている。このような歴史的背景を考えると、寛政7年(1795)2月25日に起こった落雷による不慮の火災は、本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居と多くの歴史的建造物を焼失し、非常に残念なことであったが、道真公が高天原より降神なされたのでは、という歴史的ロマンを擽る唯一の天満宮である。現在の御社殿はその頃の再建で、総欅造り、照星閣とも呼ばれ、明治9年の明治天皇御巡幸の際に、明治天皇が御参拝なされた神社である。また仙台城構築の際の有力な築城の候補地とされ、元禄2年5月7日には当社に、松尾芭蕉が参拝し「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拝て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも、当時の天神信仰が盛んだったことを示している。
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