- 由緒
人皇第55代文徳天皇の御代、今より1160余年前嘉祥年中、慈覚大師が上岡田に来臨、賀茂大明神別雷神を勧請され、その数年前の承和年中、仁明天皇の御代岡田の南東を流れていた冠川(現在の七北田川)沿いの中ノ島に草庵を結び居住していた雪峯行者が日夕禮拝祈念を罩められたという、後年天正年中には龍王院の別當職に任じた時、川島賀茂明神と称したこの東隣、現在の川島邸に持宝院があり不動尊を安置し、道場を設け衆々の修験者を養成したといわれている、龍王院は別當職に在事40余年にして復飾し藤原清信義と改名その後都法印浄眞法師(赤穂享保時代元鶴巻の人)文政年間には明王院融眞権大僧都、その後天保年間には重性院大皷家別當職となり安政5年祝融の難(火災)に逢い本尊及び凡鐘は寺、福寿院に奉納し明治2年神佛混淆(おなじ考え)廃止となり女婿(婿)義輝社掌となり姓を川島と称し明治8年村社に列し宅兆は曩に南福室熊野神社の南舊冠川の畔にあったが明治17年寺院規則改正により岡田福寿院に迂(移)された。明治37年義輝没しその後孫女婿の平三郎が職を継いだが大正5年38才で蚤世した、それより多賀城村八幡神社の宮司菅野亦左エ門兼務する事40余年に及び現在に臻(至)る、以上古老よりの傳聞する所を記す。昭和31年後裔正一殿其後を継げり。昭和31年正月 鈴木久七一閑誌。
- 地図