- 由緒
この神社の由緒は、約千年前の『延喜式神名帳』に記載されている、奥州壱百座の中の「新田郡子松神社」であるとしているが、学問的には諸説があり、「論社」の一つに数えられる。ただ、慶長3年(1598、豊臣秀吉の亡くなった年、伊達政宗岩出山に在城)正月、玉造小野松庄別当観教院実清(第三世別当、現宮司18世佐々木智徳氏の先祖)の記した社殿の古文書『狐松神社由来記』によれば、「神護景雲3年(769)荒雄川辺に神霊を遷座し「児松神社」と称し、下って延暦8年(789)坂上田村麿東征の際の神力擁護の功により社地百間四方を寄進され、さらに下って文治6年(1190)に新田郡が廃されて玉造・賀美二郡に分かれて夜烏邑となり、康永2年(1343)大崎家の家臣新田氏が夜烏邑に居城を構えて狐松神霊を邑上に遷座して「鹿島大明神」と称し、氏神として尊信した。田村将軍の寄進の神田は荒廃したが、社跡は「松郷」という地名に残っており、「延喜式神名帳」にいう所の「新田郡子松神社」はこの社であると、祖先以来の申し伝えである」と記されている。安永2年(1773)の『風土記御用書出』には、「夜烏『鹿嶋宮』但別当玉造郡新田村山伏自明院」と記載されているので、室町時代から戦国時代・江戸時代の約五百年間は、「鹿島様」でとおっていたと思われる。明治に至り神社の国家管理移行を機に、社号を旧の「子松神社」に復し、明治5年村社に列せられ、明治39年には夜烏の熊野神社・石神社と松郷の寶隆神社とを合祀する。翌明治40年神饌幣帛料供進社に指定され、その形で昭和20年太平洋戦争終戦まで続いてきた。しかし、戦後の占領政策で国家管理は廃され、新たに「宗教法人法」が制定されて、昭和28年から「宗教法人子松神社」として、氏子管理の姿で現在に至っている。戦前・戦中は武運の神様として出征兵士の参詣祈願が絶えず、お祭りも近郷近在に聞こえた、たいそう賑やかなものだった。終戦直後の3年間は、祭礼行事は中断されていたが、昭和24年春祭に復活、第1回の御膳子行列を行い、十数年は続いた。しかし、戦後の昭和30年代後半ころから、若者の都市流出や出稼ぎなどで祭も手不足になり、一時期は神神輿もトラックに乗せてまわるなど、淋しいものになった。これを憂いた氏子の中の若い父親たちが相談して、昭和50年に「祭典行事保存会」を結成し、それまで5月10日の春祭に行っていた各種の行事を、田植え後の6月第1日曜日にあて、祭の名前を「早苗振祭」と銘打って祭礼行事を復活し、現在に至っている。現在の社殿のうち拝殿は、天保2年(1831)当村大工「重右衛門」という人が、病気回復のお礼として改築寄進したもので、屋根は当初茅葺きだったものを戦後瓦葺きとし、さらに銅板に葺き替えたのは、平成9年である。本殿と幣殿は昭和12年改築、昭和60年屋根を銅板に葺き替え、同時に神輿殿と玉垣の改修も行った。
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