- 由緒
鎮座年代は不詳であるが、奥州山中七ヶ宿街道(旧羽州街道)の此所の地名をとり賀良明貴稲荷と称した。現社名は、熊谷家(現宮司家)15代目羽黒派修験者大阿闍梨金剛院祐観こと熊谷萬蔵の名が付いたものである。萬蔵は羽州街道の難所の一つの小坂峠を行通う人々を助け賀良明貴稲荷の宮守として修験者として難行苦行を重ねた。修験者としての修行と業績は出羽三山の認めるところとなり、大阿闍梨金剛院祐観の院号を授与された。熊谷家は鎌倉時代からの金剛院修験の家柄であり、萬蔵は15代目であった。萬蔵は神仏の信奉生活と社会への奉仕に明け暮れ生涯を終えた(維時弘化4年)1847年6月27日、81歳であった。遺言により3年3ヶ月後に墓は開かれ、萬蔵は即神即仏(ミイラ)の姿となって村人の前に再現され爾来、金剛院祐観の高徳を尊び慕う村人、信者達は萬蔵の信仰し守りつづけた賀良明貴稲荷様をいつしか萬蔵を含め萬蔵稲荷様と崇め称えるようになった。明治時代に入り萬蔵稲荷神社と改称、村社と成り現在に至る。
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