- 由緒
開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇二代緩靖天皇を奉祀せしこと地方伝説等に徴しても明なり。其後文武天皇の御宇仏教の余波として彼の修験道なるものあらわれ其一人として有名なる役の小角天武天皇の白鳳8年大和国吉野山に鎮座せる蔵王権現、即ち、天之水分、国之水分、二柱の御神霊を不忘山に奉還し山名をも蔵王山と改むるに至れり。此時代は仏教の最も盛んなる時にして畏くも天皇御自身三宝の奴と称し行基出でて神仏習合説を唱い空海、伝教の二僧出づるに及び本地垂跡説を説きし頃なりしかば何時しか神社名も忘れ蔵王大権現と称するに至れり。平安朝の末前9年頃は阿部氏当社を己が氏神とし神殿をも改築せし事あり。降って戦国時代に至りては当地方は出羽領に属し尊崇最も厚く水下五十町歩を神田に寄進し家臣甘糟氏をして守護せしめたり。其後伊達氏代りて陸奥に覇を握るや又己が守護神として家臣片倉小十郎をして守護せしめ伊勢神宮の例に倣い二十一年毎に御改築の例を開き、金華山を鬼門除け、当社を病門除けとして共に青葉城を守らしめたり。降って明治5年4月太政官布達により神仏混交相成らざる旨布達せられてより水分神社と称せしが〓8年に至り旧神社名を襲いて刈田嶺神社と改名し郷社に列せられて今日に及べり。
- 地図
- 動画