- 由緒
本社は、聖武帝(神亀3年又は天平3年の二説あり)蔵王連峯の主峯熊野岳鎮座熊野権現の里宮として創祀され、頭初の祭神は熊野坐大神と称し、熊野修験の手によって建立されたと伝えられる。主祭神は熊野加武呂岐櫛御食野命(素戔鳴命)で、旧官幣大社、熊野坐神社(現熊野本宮大社)の主祭神、家都御子神(素戔鳴命)と同神であるが、神名は出雲国八束郡熊野村鎮座、旧國幣大社、熊野神社の祭神と同神である。惟うに当社の鎮座地は、旧円田村四百町歩を一望する台地に鎮座し然も用水は蔵王連峯の伏流水を水源として使用されている為産業開発と五穀豊饒を司どる御神名で祀ったのであろう。平安時代に至り平泉に藤原氏により蔵王連峯の諸祭神が祭祀されるに至り、平泉との交流が福輳しつれて熊野修験の登拝も著しく、神社名も熊野三所権現と称されるにより当社も熊野三所権現と改められた。伊達十五代保山公の十子伊達(國分)盛重の長男(仙台藩家老扱い大崎八幡別当)龍宝寺の覚性院實永は熊野権現を崇拝し仙台と熊野岳との中間小紫村の不動院内に覚性院の子院を開設、熊野神社の別当を勤仕するようになった。覚性院實永は仙台藩家老岩沼要害古内主膳(一万六千〓石)の實兄であり、浜通りの住民が蔵王山登拝の近道岩沼より村田に至る近道「しが街道」を開通し又小紫覚性院を保護する為仙台藩小姓頭小関豊後(四百二十〓石)を覚性院の後方に屋敷を構えさせ特別な保護を行った為、熊野神社の社頭は常に福輳したと云う。加えて伊達藩主の崇敬も厚く度々御代参を差遣されている。境内には廻り二丈二尺の槻、一丈七尺の樅、五尺の椿が名木として風土記に記載されているが、今は現存しない。旧社格は村社、明治5年の列格である。
- 地図
- 動画