- 由緒
御鎮座地は、景行天皇の代東夷征伐に赴かれた小碓尊(日本武尊)陣営の跡といわれ、ここに社殿を建立して神霊を鎮祭し、大宮白鳥明神と称し永く地方鎮護の神と崇奉るという。嵯峨天皇の弘仁3年(812、平安)僧空海真言流布のため東奥行脚の際、社南に寺院を建て十一面観音の像を置いて本地とし、又、社僧を定めて寺号を大宮山定竜寺といい、国司より社領若干を寄進された。寺僧釈寛源所蔵の「縁起」によれば、前九年の役(天喜・康平年中)に際し官軍利あらず、源頼義父子当社に参籠奉幣して戦勝を祈りしに観応あり、夢に白衣に冠をいただく日本武尊、雄剣を佩き弓矢を執る大津武日命、吉備武彦命があらわれ、神威を加え給う旨告げられ、翌日軍中に白鶴・白鳥飛来し、社頭の藤蔓が大竜と化し遂に敵兵を敗退せしめた。よって後冷泉天皇の康平6年(1063、平安)宮社を経営して神恩に謝したといわれる。この老藤を「奥州の蛇藤」とよび今なお蜒々長蛇の如く晩春ともなれば鬱蒼と茂り花乱れ咲き往時を物語っている。爾来、村田・石川・伊達・芝多氏などの領主をはじめ広く庶民の信仰をあつめ、しばしば金品の奉献が行われた。明治のはじめ現社号を改め、明治2年8月20日村社に列し、大正3年11月郷社に昇せられた。これより先明治41、2年の間に次の神社を合祀した。天神社(字迫)、鹿島神社(同上)、愛宕神社(字相山)、山神社(字北ノ内)、八幡神社(字迫)、荒神社(字金谷)。
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