- 由緒
五十代桓武天皇の延暦(797、平安)16年征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の命を受け、東下の際、当地に来り地の高燥であることを賞し、ここに天の三大星を象り欅三本を手植し三神を祭り、又、菅生に到って天の七曜星を象り榧七本を植え、地方平定の祈願をした。後、里人此の欅ごとに祠を建て熊野三社大権現を祀る。時に大同2年(807、平安)であった。これが当社の創めであると伝えられる。八十二代後鳥羽帝の文治年間(1187、文治三か)源義経主従東国に下る途中、当村碁石山中蜂田に匿れ奥州秀衡の動静を窺った。去るに臨んで其従者武蔵坊弁慶の守本尊を郷人に与えた。郷人はこの地に祠を建てて祀った熊野加夫呂命であるという。ここは深山で当時蜂田清吉なる者宮守として居住したが廃絶した為宝永某年(1704-1710、江戸)11月14日本社に合わせ祀った。古く熊野三社大権現(鐘銘に曰く柴田郡支倉邑、熊野大権現者不詳何人之艸創、従示和光之化儀此所以降、既数百載、三社権現、国家万民祈豊穣)とよび支倉邑(今の富岡、川崎両村の一部)の鎮守であって、又、近郷の崇敬極めて厚く建久3年(1192、鎌倉)伊藤常久奥州征伐の功により頼朝より支倉邑二百余町歩を賜わり子孫久成この邑に住むに及び、社地を献じ四時の祭祀を怠らなかった。支倉氏仙台に移るや、地頭福原帯刀金子五両を献じ基金として毎年11月14日醸酒奉献の例を聞き祭典当日は名代を社参せしめた。又、伊達家臣武藤今朝五郎は当社を崇敬し伊達斎邦幕命により樺太に渡り国堺踏査検分に随行した際当社に海陸安全をなし帰国後奉幣社参した。明治の初熊野神社と改称。同8年3月村主に列せられ、大正11年2月供進社に指定。例祭は紀州熊野坐神社(熊野本宮)の祭典にならい、4月15日に挙行神輿渡御の儀がある。特殊神事の由緒祭は元11月14日に行われたが、後12月14日に改めた。祭典は、夜間に行われ、新穀を青木葉に乗せ新しい藁を敷き夜半12時特殊な祝詞を奏し聖寿無窮万歳五穀豊饒天下泰平を祈念する。支倉氏はこの夜新穀を以て神前にて酒を醸して参詣者にすすめ、氏子よりは新穀を以て赤飯を焚きその夜、又は翌日神前に献供する例であった。社殿は寛政年間の改築であったが、明治39年2月火災にかかり焼失した。現社殿は大正3、4年の交に竣工したものである。境内社の稲荷神社は正応元年、姥神社は建徳年間、八幡社は寛政年間の勧請にかかり、三峯神社は元仁元年音無から移祀した。
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