- 由緒
天正天皇の勅により養老2年(718)奥州7所に勧請し七社神明宮と称しここは其の第三の社である。後、平城天皇大同2年(807)坂上田村麿勅を奉じて再建したと伝えられる。蛭子神は「ヘツ玉」と称する地に祀られてあったが神明社の移転と共に合祀せられた。境内はもと本町東側東南一帯の地であったのを慶長3年邑主石川氏(伊達一門の筆頭)が志田郡松山からこの地に移ってから現在の地に遷座したのである。邑主石川氏の崇敬篤く、宗弘は田畑代300文を寄進し毎月15日に御神酒を供進した。明治44年1月村社に列格。大正7年供進神社に指定された。これより先明治42年6月豊室字松沢鎮座の仁和多利神社、同42年1月角田字老ケ崎鎮座の向山神社を合祀している。境内社の信吉神社は角田県所属広瀬良直邸内祠であったものを明治廃県の際移し奉るという。
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