- 由緒
御冷泉天皇の御世永承年中、陸奥守であった源頼義が紀国熊野に坐す熊野三社を崇敬していたため、当神社をこの地に再興したという伝がある。また一説に、永承元年の頃陸奥の豪族阿安倍次郎貞任・伊具十郎永衡などの再興とも伝えられる。創祀の事情は定かでない。永承7年源頼義任満ちて帰ろうとするその時、安倍氏の反乱あって頼義がこれを討ち、平定した。これに関り、伊具十郎長衡もこの乱に加担したと讒言あり、頼義が十郎を捕らえて罪に処した。十郎の姉櫻の前は当時この社に居たが弟十郎が刑死したことを聞き、悲しみの余り自害して果て、その屍を当社の南西四丁余のところに葬ったと伝えられる。即ち、青葉南の北沼家の宅地に八龍神社址があり、今(昭和21年の記録)を去る120余年前にその古墳に立っていた老松が朽倒し、その跡から鏡2面が木炭と共に出土したと伝えられている。また当社より十丁ばかり西南山中に古来貞任池と称する池がある。尚、当社所有の鰐口の銘に「應永2年9月10日熊田住人太郎左衛門」の銘あり。当地は、明治維新の際官軍の攻撃に逢った最後の古戦場旗巻峠のところであり、その戦いの際、官軍と称する者に略奪された記録や神宝が多いと伝えられている。
- 地図