- 由緒
平城天皇大同2年の勧請と伝えられ、神日本磐余彦尊、玉依姫命の二神は邑主佐々若狭守宗春官営年中の勧請という。俗に高玉明神と称され、世に皇室幕府の尊崇篤く、弘仁2年東夷反乱の際、鎮守将軍藤原国道をして代拝、征夷を祈願せしめられ、文政10年3月神祇官侍従卜部朝臣良長奉幣、天下泰平皇室御安泰を祈願している。徳川幕府、亦奥州巡見使を出す毎に社参勤幣を奉献するを例とし、天保8年には将軍家慶、黒田五左衛門・岡田右近・高橋伝七郎をして先例により巡見仕として金幣を奉献した(当時の金幣並煎茶の為掘った井戸が現存している)。亦伊達家の崇敬浅からず、例祭ごとに警護用具を携えた足軽4人を派遣し、警護せしめた。邑主佐々氏累代の崇敬あり、地頭大立目氏と共に社殿の造営、社領の寄進、祭事の興行などのことが相踵いでいた。従来の高玉社、高玉明神、高玉大名神宮などの社名を、明治初年に現社号に改め、5年村社に列格、同40年3月幣帛供進社に指定された。
- 地図