- 由緒
伊久の国造豊島命を奉斎して、佐倉(佐久良)神社と称して来たが(創祀年代不詳)、96代後醐醍天皇の御代、延元(1336)、鎮守府将軍北畠顕家、結城宗廣等と共に義良親王を奉じて陸奥に下向の際、信濃源氏支流臣小野康雄に命じ、信州諏訪大社より諏訪大神(建御名方命、八坂刀売命)の御分霊を勧請し佐倉神社に合祀した。爾後諏訪神社と称す。伊達政宗は大正17年(1589)、当社に戦捷を祈願した。凱旋の時、金幣帛、風折烏帽子、日色鈴を奉納した。又天正18年には(1590)社殿を造営し、1月15日に行われる筒粥の神事の目録を藩内に分けるように命ぜられ、係人を諸郡に出して頒布するようになった。この筒粥の神事は今も続けられている。現在の社殿は、氏子崇敬者の寄進によって本殿は亨和3年(1803)竣功。文化元年(1804)正遷座祭執行。拝殿は文化4年(1807)に成った。棟梁は佐藤善蔵で江戸後期の傑作といわれている。第121代孝明天皇の御代、文久3年(1863)神祇道管領より伊具郡惣鎮守の宣旨を受けた。明治5年3月5日村社に列格。昭和31年、本殿を茅葺屋根よりトタン葺きに替えた。現在の本殿、拝殿の屋根は、昭和56年銅板1文字葺きにふき替えた。付帯工事として幣殿、拝殿の廻緑及び匂欄、擬宝珠、玉垣を改修。総工費2,751万円。昭和56年10月、本殿、拝殿、南の石の鳥居(安政4年(1857)伊具郡講中より奉納)が、角田市の文化財に指定された。
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