- 由緒
延暦16年(西暦797年)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折り、この地で討伐の犠牲者になった先人の将軍上毛野田道(崇神天皇の皇孫)をはじめ、土地の豪族や住民たちの弔意のために、伊治水門(石間山)に石合稲荷(現在の石間稲荷神社)を勧請(神様の分霊を迎えて祀ること)し、椿山に観音堂を祀り(その後、神社境内に移転)、武運長久や開拓の安全を祈願したと伝えれています。
当初、神社が建立された岩間山の処は、巖山で波が打ち寄せ合う場所で、石の間に祠を置き祀ったとされています。その後、時の豪族が奉護し、拠点として下郡をはじめ逢隈地区が開拓開墾され発展しました。(大和朝廷より、日本武尊をはじめとする将軍が時代により陣所を構えて統治の施策とし鎮守して来ました)
慶応4年(1868年)3月28日に「神仏分離令」が太政官より布告され、明治5年(1872年)に神社の社格として「村社」に列格しました。
永きにわたり神社は、通称「石間さん」と親しまれ、地域の鎮守様としては勿論、現在の霊験が灼かで、五穀豊穣・商売繁盛の神様として近郷の方々からも厚く崇敬されております。
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