- 由緒
創建は不詳ではありますが、社伝によりますと、八幡太郎義家とも呼ばれる源義家の勧請(神様の分霊を迎えて祀ること)と伝えられております。
天喜4年(西暦1056年)「前九年の役」の平定征伐の途上、陸奥守鎮守府将軍の源頼義が上郡地区の「八ッ山峰」に着陣し、嫡男(息子のこと)八幡太郎義家の陣地に宿営の折、京都の男山八幡宮(現在の石清水八幡宮)の分霊を祀り、武運長久・戦勝祈願の祭祀を行ったと伝えられています。
その後も朝廷の要職が蝦夷討伐に際して参拝するなど、時の豪族が奉護し、拠点として中泉を始め逢隈地区が開拓開墾され発展しました。
時は神仏習合時代でありましたので、慶長7年(1602年)伊達政宗の命により、胎蔵院に一時勧請されたと云われております。
その後、元禄15年(1702年)の検地により、中泉村民(現在の中泉・上の町・今泉地区)が一同協力して、天災(旱や、阿武隈川の洪水氾濫)のため、飢饉や疫病に苦しむ人が絶えなく、疫病退散・五穀豊穣・中泉地域全体の安寧を願い、胎蔵院より分離奉遷し、洪水の被害が少ない場所として現在の「町裏」に再興し祀っております。
当神社は西向きに鎮座されており、これは阿武隈川の洪水氾濫から地域を護るために、川に向けて鎮座されたと考えられます。
社名は当初、八幡社・八幡宮と称しておりましたが、慶応4年(1868年)3月の「神仏分離令」が太政官より布告され、「中泉八幡神社」と改称し、明治5年(1872年)11月に神社の社格が「村社」に列格しました。
地域の鎮守様としては勿論、祭りを通し生活・習慣などの拠り所として皆様の絆を更に深めていく場として、活用して頂ければと存じます。
- 地図