- 由緒
天喜4年(西暦1056年)「前九年の役」の平定征伐の途上に、陸奥守鎮守府将軍の源頼義がこの地に着陣し、嫡男(息子のこと)八幡太郎義家の陣地に宿営の折、京都の男山八幡宮(現在の石清水八幡宮)の分霊を奉祀の上、武運長久や開拓安全の祭祀を行ったと伝えられています。その後も朝廷の要職が蝦夷討伐に際して参拝するなど、時の豪族が奉護し、この上郡地区を拠点として逢隈地区が開拓開墾され発展しました。
慶長9年(1604年)に天災(旱や、阿武隈川の洪水氾濫など)のため、飢饉や疫病に苦しむ人の後が絶えず、疫病退散、五穀豊穣などのご利益がある、福島県伊達郡鎮座の八雲神社の分霊を、袖笠山(現在の天王山)の麓に上郡地域の安寧を願い勧請(神様の分霊を迎えて祀ること)し、祠を建立しましたが、明治39年に政府により出された「一町村一社」の令により、同じ地区に二つの神社が祀られないことから、明治42年6月に合わせ祀りました。
社名は当初から「若宮八幡宮」と称し、永きにわたり通称「若宮さん」と親しまれた時代がありました。慶応4年(1868年)3月の「神仏分離令」が太政官より布告され、「上郡八幡神社」と改称され、明治5年(1872年)11月神社の社格が「村社」に列格しました。
大正7年には「神社財産維持確立」により、大変眺望が良い「八ッ山峰」(八幡太郎義家の陣地があった処)の山頂を整地し、本社の奥宮を建立しました。更に昭和11年(1936年)に「神饌幣帛料供進指定神社」(町村から祭日に神様へ供物と初穂料を献ずる制度)に指定されました。
地域の鎮守様としては勿論、祭りを通し生活・習慣などの拠り所として皆様の絆を更に深めていく場として活用して頂ければと存じます。
- 地図