- 由緒
文治5年(西暦1189年)に源義経に仕えて奥州に出向いた、豪族の渡辺源左衛門綱安が「衣川の戦い」に敗れた義経の死後、この地に移り館(城)を築き、この逢隈地区を領地とし、姓を「十文字」と改め、荒地を切開き開拓開墾しました。
未だ、戦国時代で統制と治安が乱れ、且つ天災(旱や、阿武隈川の洪水氾濫など)のため、飢饉や疫病に苦しむ人の後が絶えなく、天下泰平、武運長久、五穀豊穣、疫病退散、十文字地域の安寧を願い、館内に京より勧請(神様の分霊を迎えて祀ること)していた大山祇神・誉田別命の祀り、鎮護の社として創建したと伝えられております。
後に、十文字氏は、亘理領主と所領争いをしていた福島県相馬領の相馬充胤(千葉常胤の次男・小高城主)と同盟を結び、2700石を与えられ、正中2年(1325年)正月に相馬氏の氏神の妙見社(現在の相馬中村神社)の分霊(妙見尊=天御中主命)を勧請し、合わせて祀りました。
時は神仏習合時代でありましたので、社名は当初「八幡社」から時代により「妙見社」「妙見尊宮」「十文字妙見社」と称され、通称「妙見さん」と親しまれた時代がありました。
慶応4年(1868年)3月に「神仏分離令」が太政官よい布告され、「十文字神社」と改称し。明治5年(1872年)11月には神社の社格として「村社」に列格しました。更に昭和11年(1936年)には「神饌幣帛料供進指定神社」(町村から祭日に神様へ供物と初穂料を献ずる制度)に指定されました。現在の社殿は、安政9年(1859年)に建てられたものであります。
地域の鎮守様としては勿論、祭りを通し生活・習慣などの拠り所として皆様の絆を更に深めていく場として、活用して頂ければと存じます。
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