- 由緒
昔名取郡に一老巫女がいて、深く紀州熊野の三神を信じしばしば登拝したが年老いて長途の旅に堪えず、鳥羽天皇の保安4年(1123)三神の神霊を名取河南飛鳥丘に地を相し、紀州を象どり西北に熊野本宮、西南(吉田)に熊野那智神社を創建したと伝える。(縁起)このことは、今に郷談にあり、かつ、新古今集神祇部にもそのことを載せている。この社は、熊野新宮にあたるわけで、中央を証誠殿といい、東を若宮、西を西宮といい、西宮の傍に老女宮が並び建っていて、其の前に新しい拝殿があり、前庭に広い池が水をたたえこれを老杉がしっかり囲んでまことに神神しい。文治5年7月、源頼朝奥州東征の際武運を祈り、霊験功を奏したので再当社に詣うで深く謝拝し境内に杉樹を手植し真筆の判物を奉納且禁制書を寄進し、尚神社保護の為射手二名を附せられ神徳を昭輝し崇敬を盛ならしめた。爾来武門は勿論庶民迄其の神徳を崇めるに至った。殊に仙台藩主政宗四代の祖、稙宗をはじめ歴代の藩主は重ねて神領を寄進し社殿を修営した。祭事は旧領主国分盛重代の古儀による。足軽(生出村野尻・玉浦村矢目)をして警護の任に当らしめた。社領三十石、祭料廩米三石五斗、神主二人、社家七人、流鏑馬射手二人を附した。本社は何時の頃からか寺坊において社務を掌った。即ち熊野山新宮寺(真言宗京都醍醐報恩院末寺)と称した。明治に至り神仏分離し元熊野新宮証誠殿と呼んだのを現社号に改められた。大正10年8月郷社に列せられ、更に昭和15年11月県社に列せられた。例祭はもと9月9日に行われ社司六人・巫女一人・射手二人(或は神主二人・社家七人・流鏑馬射手二人とも)を以って奉仕した。又、その祭礼に今に奉納される謂う所の熊野堂神楽と舞楽は芸術味豊かで学術的にも有名である。
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