- 由緒
本社の創祀年月は明かでないが、今、当社氏子布田氏の伝える家系によって按ずるに、文治5年(1189)葛西民部丞光信(前記布田忠三郎氏祖、葛西清重の一族か)藤原泰衡討伐の折り源頼朝に従って奮戦し遂に民部丞主従は名取郡に止まり山城の貴船大神の分霊を祀り、小川村の鎮守とした。後光信はこの地の郷士として産業の開発につとめた。元弘3年(1333)左衛門尉長康(光信十世の孫)上野国新田郡の領主義貞義兵を挙げたことを聞き、貴船大神に祈って出陣、鎌倉の軍勢を攻め敗る。後建武2年(1335)鎮守府将軍北畠顕家西上の時も長康をして当社に代拝せしめ、延元4年(1339)源顕信・結城宗広と共に義良親王を奉じて吉野宮に帰る時も長光を使として代拝した。後、天正16年(1588)武隈城主泉田安芸守重光は五穀豊穣祈願のため正月元日に参拝してこの社を崇敬する。当社鎮座の山を霊山という。往古一夜にして成れる山であるという。従って岩石磊々たる参道を登る拝者奇異の景観にうたれ、かつ全山うっ蒼たる老杉につつまれ実に荘厳無比の神域で、風光亦明媚にして山麓を流れる川もあたかも京都の貴布祢川の景に似ている。この霊山の中腹に霊石あり、古来この石には手を触れることを戒めている。なお、「安永2年4月風土記書出」に、真言宗蓮花寺宥詮(延宝年中開山、岩沼郷竹駒寺末寺)は次のように記している。一、貴布祢明神宮、四尺、四尺五寸、右神社当村鎮守に御座候、勧請は何時頃誰人之勧請に候や年暦・由来相知不申候、祭礼3月10日、別当蓮花寺。明治5年4月村社に列し、大正2年9月幣帛供進社に指定された。
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