- 由緒
当社は元、国分荘三十三ヶ村の総鎮守国分一宮である。延暦年中(782~805、平安)氏子一統山神と称して崇め奉る。文治5年(1189、鎌倉)源頼朝泰衡を討伐の為発向の時戦勝を祈りその報賽の為伊沢四郎家景を以て社殿を建立(拝殿長床)せしめ諏訪社と改称し、新に十五末社を建立したので、当山はすこぶる荘麗を極めた。これより先、信濃国佐久郡の住人源房治の後裔佐久太郎房義、佐久次郎治義の二人頼朝に従って来て社務を掌ったといわれる。康正3年国分下野守宗治、郷六九郎再興、此の時西山なる御殿城より現今の地に移し奉る。永禄2年国分能登守宗政、同丹後守宗元、次、息刑部左衛門綱元、郷六讃岐守政次、息惣左衛門政友社殿を再築して神馬一頭を寄進した。慶長3年国分家没落、郷六惣左衛門故有りて山岸修理助、堀江長門守、同但馬守施主となり12月1日遷宮、祢宜伊勢守治清、其子中将奉仕。元和9年藤原朝臣政宗再建、宮本坊奉仕。寛永11年12月晦日の夜宮野長永夢に和歌一首を得た。即ち「世を長く保つ心は政宗の世界しつかに住吉の松。」と。此の時茂庭了庵綱元の室下愛子に在り、綱元はこの和歌を政宗公に奉聞したところ政宗大いに喜び、金3両を奉納し諏訪夢想大明神と贈号、額面を掲げ奉った。翌12年の政宗の造営は造営代官茂庭了庵綱元、奉行猪狩八右衛門元次であった。此の時本殿長床石階を修造して輪奐の美を極めた。現在の社殿がそれである。寛文3年再営の際は願主茂庭周防定元でこの歳は伊達家に原田の難があった為、国分、名取、亘理、伊具、宇田、柴田、刈田、志田、遠田、加美、桃生、牡鹿、栗原、登米、玉造、磐井、胆沢、江刺、気仙の各郡より広く浄財を募った。貞享2年6月伊達綱村は鳥居を奉献している等藩主領主の武門をはじめ一般の尊崇厚く大いに栄え、今日に及んだ。明治7年8月村社に列せられ、同40年4月供進社に指定された。筒粥の神事、その起源は文治年中と伝えられ、1月14日の深夜から暁にかけて行われる。筒粥を神前に煮、当年の五穀野菜の豊凶を卜定する神事である。現在の社殿の主要な部分は、寛永12年(1635)政宗の代から宝永2年(1705)の間に幾多の困難の末成ったものと思われ、覆屋で保護されているからほとんど腐蝕することなく保存されている。本殿は三間社流造、こけら葺、桁行15.3尺、梁間9.1尺三間の向拝と浜床をつけ、中宮・左宮・右宮に分れている三社造で、彫刻も江戸中期の堅実な手法で施され、社殿と長床だけの古い形式の美事な建物で昭和38年7月本殿と12枚の棟札を含めて県の重要文化財に指定された。
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