- 由緒
本社の勧請年代明でないが、社伝に拠れば、この神(鹽竈大神と同神といわれる)は、神代にあって御舟にて鼻節浜に上陸し給うたという。第6代孝安天皇の御宇ほうが崎(今、元御殿と称し里人之を常に礼拝している)に鎮座あり、第34代舒明天皇2年始めて圭田43束を奉り神事を行った。第49代光仁天皇の宝亀元年(770)現在の地(垂水山、誰道にも作る)に移社した。第54代仁明天皇承和11年(844)8月、霊験あるに依り旡位から従五位以下に陞叙せられた。(続日本後記)第73代堀河天皇康和5年(1103)6月社司等神事に過穢あるにより祟給うたので使者を遣わし中祓を科し祓清せしむべしとの神祇官の奏言あり、(朝野群截)延喜の制には名神大社に班した。(延喜式)平安文学の白眉枕草子の中に、生田、龍田等の名社と共にはなふちの社と数えられ、朝野の崇敬啻ならざるものがあった。鎌倉の代陸奥国府の主厨にして花渕城主(留守伊澤氏家臣)だった土豪花渕氏累代の尊崇あり社殿の造営、祭事の興行の事相踵いだ。本社の近くまつり田、元つくり、正月田、二月田、三月田等の地名があるのは旧神田社領の遺名であることは言うまでもない。明治5年5月村社に列せられ、同40年3月供進社に指定された。本社は旧来鹽竃大社の末社と称してきたが、明治10年3月国幣中社(志波彦神社、鹽竃神社)の攝社に定められた。同42年6月字山神の山神社、字三月田稲荷神社、代ケ崎浜字八ケ森の天神社などを合祀した。境内社の大根神社の本殿は当浜当方20粁の海中にあり、退潮の時石敷岩檣等窺うことが出来る。本社の社側に二石祠を建て遥拝所殿としている。始、ほうが岬に在ったが、宝亀元年此の地に移した。創祀年月不詳。石祠は明和5年改造立。同八幡社は創立年月は明でないが花渕城主の崇敬社と伝えられる。
- 地図