- 由緒
当社は、寛文3年古縁起等を焼失したので創祀年代を明かにすることが出来ない。或は推古天皇6年と記し、一(市)宮波神、賀茂三社を合祭すという(観聞志、名跡志)又、別当正善院清範はこの賀茂明神社を式内須伎神社であると伝えているという。宝永元年8月25日藩主伊達吉村(獅山公、この人は宮床領主田手氏の出である)社参の節、一ノ宮の社号が、鹽竈大社と紛らはしいというので宮中と改めた。(同上)享保15年八幡宮を新造した際、これを本体としたので賀茂神をはじめ鴇田伊豆国種(宇和多手城主)の建てたという諏訪と、稲荷、愛宕、白山社を末社とした。宝永元年10月獅山公は三貫文を社領に、正徳4年五百文を別当領に寄進した。忠宗・吉村ら藩主並びに領主田手氏の参詣納物、社殿の修営、祭事の興行が絶えず行われた。
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