- 由緒
延暦年中(782~805)田村麿利仁将軍東征の際の勧請にして、甕数百器を以て社地を築いたといわれる。延喜の制名神大社に班し、伊達家当国の守となるに及びて伊達の字を憚り俗に香取社と唱へたが明治5年旧号に復した。藩主綱村黄金1枚を献じ以て永く修造料に充てた。古昔、波々伯部刀弥卜部清水なる者社家たりしが、文禄中興廿九代の裔孫波々伯部将監卜部清治羽黒派修験となり神雄山竈香寺圓覚坊覚永と号し別当となり爾来連綿四十数代社務を司った。明治6年4月村社に列せられ、同39年供進社に指定された。明治38年9月字迎向なる塩釜、田村の両社、字上郷鎮社の田中の三社を、同41年10月今熊野、八坂の三社、翌42年4月字大下本町北囲の熊野、上本町囲の八坂の二社を合祀した。特殊神事として、稚児献膳と湯立行事がある。湯立神事は、毎年10月27日夜(元は旧9月27日)行はれて来た古神事である。釜数150、本釜40箇は氏子が持参する例である。(現在休止中)。稚児献膳、この神事は毎年5月1日に行はれている。氏子区域の各部落から約70名の女児が山菜を三方に盛り、稚児装束を着用し10名の聰代は裃を着用、男児10名は狩衣姿で旗を持ち太鼓を打って町を練って神社に至り山菜を奉献して祭典を執行する。もと4月15日に執行したが、この日は蝦夷酋長大墓公阿氐利為盤具公母礼等の降伏した日を記念して創めたという。
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