- 由緒
安永の風土記によると、下狼塚田中囲の田圃の中に観音堂という処があって境内は方五間、堂は南向八尺四面、本尊は金仏立像御長五寸余、地主は荒屋敷の又四郎、別当は四日市場の良性院、祭日は4月17日、9月17日、勧請の年月等は不明とある。堂の棟札によると、文化2年(1805年)3月、堂の破損甚だしきにより四日市場枛木江伊藤氏林内の投財と、村民有志の資材の寄進、労力の提供等により改築したことが明らかである。田中神社と併称し、稲荷神社と同じく倉稲魂神を祭神とし、作神様としていることは、神仏昆淆の極端な例で、お祭りの前夜即ち宵祭りはお精進料理で、翌日はお精進上げと称して神式でお祭りをする。千葉家四十八代良性院祐慶(千葉丹宮)のこれに関する記述に「抑大日本国は神に相うけ皇々相伝わりし神國なれば、神社をのみ崇敬すべきものなるに、豈図らんや印度の教仏道といふもの渡来し、高刹甍を双べ仏閣寺院は延に蔓延り、釈典弘通の時世となりし際なれば、神社へも本地は仏法なりとして僧臣を以って別当といふ名称を附したり。田中神社もその節なれば観音堂といふなるべし」とあり、田中神社も観音堂も何れが先なのかハッキリしないが、安永の風土記にも田中観音堂とあるより察すると、元からあった観音堂に由緒のはっきりしない稲作の神様を合祀したのではないかと云われる。最近、平成7年からの圃場整備事業により、田圃の中の字観音堂104番地より、字田中の地へ移転し、平成13年正式地番が決まり下狼塚字田中379番地に鎮座した。
- 地図