- 由緒
「封内風土記」に「傳云。冷泉帝。(第63代天皇。皇紀1628年・西暦968年)安和中勧請。」、また「風土記御用書出」には「誰勧請ト申儀相知不申候得共安和年中勧請仕候由 申傳候事」(八幡宮傳云 冷泉帝安和年中勧請・田邊希文撰封内風土記ノ内志太郎ノ部ニアリ)さらに「宮城懸神社名鑑」には「永承(皇紀11706年・西暦1046年)・天喜(皇紀1713年・西暦1053年)(第70代後冷泉天皇)のころの創祀」としている。そして明治40年の「社寺神社由緒調」にも「本社ハ冷泉天皇御宇安和年中左馬頭源満仲武運長久祈願ノ為メ勧請シテ祭リタリト傳フ」次に「寛治年間(皇紀1747年・西暦1087年・第73代堀河天皇)陸奥守源義家東夷征伐ニ際シ、鎌倉権五郎景政ヲシテ戦勝祈願ナリシメタリト傳フ」次に安徳天皇御宇治承年中(皇紀1837年・西暦1177年~)源頼朝以仁王ノ令ヲ奉シテ兵ヲ伊豆國ニ起サレケル時弟義経陸奥藤原秀衡ノ許ニ在リテ之ヲ聞キ掛ケ従ハントシテ上リケル途中前年陸奥ヘ下ル時ニ詣タリケル敷玉神社ニ再ヒ詣給ヘル時モ同シク本社八幡神社ニ詣テデ祈願サレタリト傳フ」文禄元年(皇紀2252年・西暦1592年)藩主伊達政宗朝鮮征伐ニ出陣スルニ際シテ片倉小十郎をして幣帛ヲ奉リ戦勝ヲ祈願ナサシメ凱旋シテ後政宗公自ラ報賽ノ祭ヲ為シタリト傳フ」(古老傳説ニ依ル)。八幡神社の勧請年代については、前述の二者は、安和年中とし、しかも源満仲の勧請となると歴史的に符合しないと、思慮される。しかし「宮城県神社名鑑」にある永承・天喜の年代となると、「前九年の役」源頼義・義家父子の東夷征伐の時代と符合し、時代考証からして信がおける。
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