- 由緒
宝暦7年茂庭苞元が家老三坂寛次に命じ、京都北野神社から勧請したものと伝える。また記録に「梅樹の臼」の伝説がある。「敷玉村の東端大字青生は小部落を成せる地を梅の木と称す。祠あり天神を祭る。鳴瀬川沿岸にして祠を移すこと3回、今尚古杉老松鬱蒼として昼尚暗く、初秋の黄色杏樹遠見佳地に富む。伝えきく、往時邑民清兵衛なるものあり、庭内大樹の梅あり。天満宮の画軸を梅樹に掛け、且白幣を捧げて祭る。清兵衛故あり此地を離る。のち祀るものなく隣家に小兵衛なるものあり。白幣を自邸に移し、奉祀至らざるなし。且謂らく此大樹の梅を凹して臼と為し、毎年9月25日と3月25日の両度に餅を搗き、神前に供ふるに若かず。仍て臼を造り、餅を搗き奉祀すと。星移り月変り、明治を至り二十年頃、行商人風の旅装を為したる男の人、偶然弥兵衛を訪い尋ぬるに、梅樹の古臼あり。拝見せしめよと。弥兵衛驚き、米搗臼数個あり何れか梅樹たるを知らずと答え且告ぐるに米糠の容器とせしものあり、古朽せりと。二人古朽する臼を熟視久くして曰く、是れなりと標然として去る。弥兵衛爾来古臼を座上に置き、容易に人に示さず、27、8年の役弥兵衛の養子富治従軍、家亦婦女子のみなり。此地を去りて不動堂村に移住せんとし、謂らく梅の木の地を離るるに、古臼を持参するは神罰の恐あり。扨て弥兵衛妻とめ女、今の祠に納め養子の健全を祈ると。今日天神社の宝物となる」
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