- 由緒
80代高倉天皇の承安年中(平安時代1171年~1174年)藤原秀衡の族、照井太郎高直当村に居城を築くや、秀衡命じて八幡大神を勧請せしめ以て鎮護の神としたという。寿永年中(平安時代1182年~1184年)源義経平氏を追討するや、秀衡は義経のために戦勝を祈り、重臣江刺某して当社に神鏡を奉納した。(径4寸、裏に蓬莱仙島を彫りその四辺に花紋を回らす。)平泉一族亡び、当社亦廃頽し、暦応年中(南北朝時代1338年~1341年)管領大崎兼家地頭水野八郎右衛門をして修覆せしめ、守護神としたが、天正年中荒雄川氾濫し押し流されて川敷となったため、これを今の地に奉遷した。天正18年大崎氏滅亡し伊達政宗岩出山城に居るや深く当社を崇敬し、政宗慶長年中仙台に移るに及び、城趾に大崎八幡神社を勧請し毎歳祭礼毎に四氏をして流鏑馬の儀に奉仕せしめた。彼の四氏は当社の社家で大崎氏時代から祭祀のことを司っていた。後、聖護院派修験の管下に属し成等山八幡寺と称した。元治元年、社家多田広人再興、明治2年4月別当正覚院より調書を神祠局に提出し、寺院の管理を脱した。同5年村社列格、同40年3月供進社に指定された。同39年12月地区内川北の草薙神社、道場分の神明社、窪川原の白鳥神社、小泉の熊野神社、同42年5月坐散乱木囲いの坐々良岐神社を合併奉斎した。昭和46年11月古昔の由緒に従い社名を大崎八幡神社に改めた。現在の社殿は昭和57年10月に移転造改築した。
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