- 由緒
涌谷伊達氏(亘理)4代の館主宗重公の徳を追慕し明治7年12月官許を得て其の霊を奉祀する。宗重公は寛文事件の中心人物で、この事件の大要を左に掲げる。涌谷二万三千石の館主、伊達安芸宗重は寛文事件(伊達騒動)の中心人物として広く世に知られている。父定宗の後をうけ治世20年、仙台藩の長老として重きをなしていた。徳川家綱が将軍に任ぜられたとき藩主伊達忠宗に代って江戸城に登り、万治3年(1660)8月亀千代が家督相続のときも、藩を代表して江戸に登った。寛文9年(1669)亀千代君11歳で元服し綱基と名乗る。当時の仙台藩は後見伊達兵部宗勝(政宗の末子)の独裁的権力の支配下にあった。同役田村右京宗良(綱宗の兄)は病気を理由に引こもり、家老柴田外記、古内志摩の二人と原田甲斐とは不和であった。兵部は原田甲斐と結んで権勢をほしいままにし、奥山大学、里見十左衛門や伊東七十郎らの反対派を失脚あるいは斬罪にした。殊に渡辺金兵衛、今村善太夫らは兵部の手先となって警察政治を行ない専横を極めた。告発と刑罰が絶えないので人心が動揺し伊達家の運命は危機にひんしていた。伊達安芸が後に幕府に差出した仙台罪人の数は120人にのぼっている。寛文年中は藩内各地で野谷地の開墾が盛んで伊達安芸領遠田郡二郷谷地につき、登米伊達式部との間に谷地(やち)の境界争論がおきた。式部が藩に訴えたので安芸は応じていたが、9年6月安芸の譲歩によって、一たんは事が納まった。ところが同年夏に二郷谷地の分割のとき検使の今村善太夫、横山弥次右衛門らは、意図的に安芸を不利にしたので問題が再燃して大きくなった。寛文10年、安芸は谷地分割に依怙ひいきを働いた不正役人を取調べるように藩に要求したが兵部はこれを無視し、逆に近縁の立花忠茂(柳川藩主)や大老酒井忠清を後楯に、一方的に安芸を押しつぶそうとした。この年の10月、兵部は事件が老中の耳に達していると申次の名で告げ、要求をしりぞけようとした。安芸は幼君のため、今のうちに兵部の独裁政治を打破しなければ、伊達家の運命にかかわると深く憂え、上訴を決心し、谷地配分の不正を証拠とした。11月、安芸は仙台目付に兵部の失政を訴え出た。一方江戸には涌谷圓同寺(見龍寺)の石水和尚や家来亘理蔵人らを次々に登らせ、老中板倉重矩らに事情を内々に通し、旗本松平隼人正(水沢伊達宗景のしゅうと)らの援助により保科正之(前に将軍輔佐、会津藩主)らに実情を内報して、幕府の公正な判断を期待した。また後見の田村右京方と結び、幼君側近の護守(だきもり)役や藩士の有志と連携した。かくて12月、安芸は申次のの島田守政(江戸町奉行)らに上訴の主旨を通報することができた。寛文11年(1671)2月、安芸は幕府の召により江戸に登る。時に年57。供勢260名であった。3月4日板倉重矩の屋敷に呼ばれて同役土屋数直ともども訴意を問われた。3月27日、大老酒井忠清の屋敷に老中が会し、安芸、外記、甲斐、志摩の順に呼ばれて尋問が行なわれた。安芸の主張が認められ、甲斐は非に決した。突然、その場で甲斐の匁傷事件が起り、安芸は甲斐に斬られて果てた。甲斐は外記、蜂谷六左衛門に殺されたが、二人も命をおとした。4月3日伊達兵部は土佐に流され田村隠岐(右京)も閉門を命ぜられた。次いで藩主伊達綱基は領地の安堵が命ぜられた。ここにいわゆる寛文事件は落着した。延宝2年(1674)3月27日、藩主伊達綱基(延宝5年名を綱村と改む)は「尽忠見龍院」の5字を書いて、安芸の廟の額とするよう嫡子の宗元に贈り、父の忠節を賞した。即ち同10年4月社殿の造営成り鎮座祭を行う。この年村社に列し、大正11年4月郷社に昇格す。これより先、明治40年3月供進社に指定されている。
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