- 由緒
元来、此の境内外の地は、奈良朝聖武天皇の御宇、天平9年(737年)設置された「新田の柵」の跡地で、当時の古瓦数種出土する。(東北大高橋富雄教授著「蝦夷」参照)。又延喜式内社新田郡子松神社(即ち新田の柵の守護神)の旧所在地とも云われている。(吉田東伍博士著大日本地名辞書参照)朝廷の東北蝦夷対策の進展に伴い、新田の柵は何時しか廃絶の運命となり、従って其の守護神たる子松神社も亦他へ移転するの巳むなきに至った。現登米郡迫町坂戸に鎮座した子松神社は即ちこれである。爾後約300年を経て後冷泉天皇の御宇、源頼義、鎮守府将軍兼陸奥守として安倍氏の乱平定の勅命を奉じ、子義家と共に下向し、天喜5年(1057年)天狗ヶ岡(現大崎市田尻八幡北部栗原市境に在る丘陵)に宿陣し、陣頭に社壇を設け、石清水八幡を祭り、官軍の勝利を祈る。時に安倍貞任の叔父良照、小松の柵(田尻町西北部、北小松に在り)頑強に抵抗した。旱天累日、人馬飢渇大いに苦しむ。義家適一夜、八幡神影を夢む。早朝一卒、叢林の中に一泉源を得(今之を葦切清水と云う)飲用進むる者有り、是に至って官軍士気大いに揚り、進んで小松の柵を陥れ、北進して衣川鳥海厨川の諸柵を抜き、安倍氏悉く誅に伏した。是皆感応著しき神慮の然らしめる所となし、其の神護に依り賊軍悉く平定し、凱旋に際し、旧新田の柵の守護神たる子松神社の跡地に、石清水八幡を勧請し武具を納置した。之即ち当社の起源である。(当地と胆沢及び栗原の三ヶ所に勧請し毎社に武具を奉納した。三八幡と称される)。その後義家六代の孫斯波尾張守家氏初めて下総の国大崎郡を領し、氏を大崎氏改めた家氏四代の孫(義家九代の孫)伊豫の守の大崎家兼、将軍足利尊氏の命に依り、正平11年(1356年)奥羽二州を鎮定し、陸奥の守に任ぜられて下向するや、本社が其の遠祖義家の勧請にかかるを以て、正平16年社殿を再興し、祭式を復し、大崎家の氏神、其の封土大崎五郎の総鎮護と崇め、大崎八幡と尊称し奉った。其の後九代を経て左衛門督大崎義隆に至り、天正18年(1590年)小田原不参の罪を得、豊臣秀吉に滅ぼされ、其の旧領伊達氏の有に帰するや貞山公政宗亦本社を尊崇し、慶長5年(1600年)旧玉造郡岩出山に(現大崎市岩出山の八幡神社)更に同9年(1604年)仙台城下国分荒巻に奉遷した。(現仙台市の大崎八幡宮)而して本社は旧に依って再建せられ郡民の信仰いよいよ篤く明治5年3月郷社に列せられた。(宮城県庁所管「大崎八幡神社明細帳」「遠田郡誌」「田尻町史」「享保縁起集」富田広重著「名所古蹟を索ねて」中「大崎八幡濁酒の由来」等参照)。尚、維新前、本社の別当職は現東隣の一、新義真言宗智山派通木山寶積院八幡寺。又本社に附属したと見られる修験二け所あった。一、羽黒派白澤山萬宝院。二、羽黒派花嶋山光明院。萬宝院達道法印は、当社並びに八幡寺を兼務して寺子屋の師匠をしていたという。其の弟子達によって建てられた筆塚は現存している。其の子白旗東馬は初代の社司を勤めた。
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