- 由緒
明治39年8月提出の神社調査書には「本社の創立年代祥ならず、口碑に伝ふ、此地古昔小田の郡と称ふ。後遠田郡に合して小田の保の称をとどむ事文治以前にあり、而して保中所処に本州宮城郡鎮座塩釜神社の神領あり、目其地に各々宮殿を建てて奉祀す。本社其一つなり、明治5年5月村社に列す」とあり、更に証拠として「旧記奥州余日記録に云う。塩釜明神宮は年に未だ号の有らざりし時より因縁し大化元年に宮城の郡に立ち給ふ。当永正11年まで709年になる。昔は当国諸郡に神領あり、行方の保にも宇多の庄にも外が浜にもあり、糠の部(二戸郡三戸郡九戸郡北部の地)にあり三迫(栗原郡の内)黒川は云ふに及ばず小田の保(遠田郡の一部)にあり色麻の保(加美郡)にもあり、大谷の保(黒川郡内)羽生よりは7月御神事にあふ屋代・同御幣紙を奉る。三迫高泉よりは駿河守代まで御幣紙・あふ屋の代を奉る云々とあり此の文と口碑に伝うる所符合す。依て証拠に供せり」と述べています。このことを整理しますと奥州余目記録から「諸郡に神領があって其の地に塩釜神社を建てた。本社のその一つである」。永正11年(1515)には神社が存在していた。南郷村誌から「葛西の重臣三家が改めて勧請し崇敬した」天正18年(1591)。昭和12年7月16日県庁社寺兵事課の調査書から「伊達安芸公が寛文元年(1661)9月19日これを勧請金剛院(力山家先祖)を家中小姓通格とし祭典を執行させた」これが由緒であります。
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