- 由緒
本社は、天武天皇の御宇(680年頃)加護坊山が比叡山に似ている事から東比叡と称し、加護坊山頂に国家安楽寺を創建しその(鎮守)の守護神として山王大権現を勧請した。当社の御祭神であります大山咋命は、須佐之男神の御孫神にあたり、又の名を山末之大主神と申し、近淡海国の日枝の山に坐す神とされ、即ち、近江国の比叡山に鎮る山の神で、「くい」とは、山の樹木や田畑の五穀をグイグイと押して育てて下さる御神徳と指したものである。爾栄、治山治水、営農の守護神、武神、或は産神として、地方民衆の信仰篤く生活活動に限り無く崇敬を集めた。文禄3年(1594年)、涌谷初代館主、亘理元安斎元宗公歿するや遺骸を当社の麓に葬り5本の杉を植え廟宇とした。大正初期の暴風雨落雷等により風倒したので、現在は代木を植えてある。3代館主(1652年)定宗公は、大貫に池舘を構えて隠栖されたが、その子、宗重公(伊達安芸)は定宗公の御機嫌奉仕にこの険路な山王道路を通われた際に、祖元宗公の廟宇路傍にありては、その威霊を汚さん事を虞れ、当社に合祀し社殿を造営し甲冑、太刀、田畑を寄進して篤く之を祀らしめた。天保年間、13代義基公、文武両道に秀で且つ敬神の念厚く甲冑、太刀、弓矢等を献じ別当寿宝院をして祭祀を一層減修せしめた。明治5年、村社に列せられた日枝神社と改構。明治41年12月16代亘理胤正氏より、山林2町歩を営繕料として寄進されるなど、城主の信仰、誠に深かりしものあり。現在の社殿は、皇紀2600年の記念事業として昭和16年に再建したものである。
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