- 由緒
後冷泉天皇の御宇、永承6年(1051)源氏の棟梁、源頼義は陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍も兼ねて遥々と東北の地に向い、胆沢城に入った。そして任期を終えて多賀城国府に帰る途中、安倍一族の挙兵に合い、栗原郡を戦場として前九年、後三年の戦役の開始となる。この戦役を平定に導いたのは出羽の豪族清原武則の来援であった。数万の大軍を率いて奥羽山脈を越え鬼首、花山を経て栗原郡営ヶ岡(尾松)に入り、将軍頼義に謁見、連合して平定にあたることを誓った。将軍も兵を集め、陣を栗原の郷太田、山口、富、中村の諸所に布き、後陣はは諏訪ヶ原まで達し、雲霞の如き大軍団となった。この大軍を遠望したことから「勢見峯」と云う地名が起こったと伝えられる。清原氏の来援で勢いを得た将軍父子は源氏の氏神である八幡大神を戦勝祈願の為、金田荘栗原郡山口の郷に勧請したのが始まりである。時に康平5年(1062)であった。将軍父子、清原武則の連合軍は安倍一族を厨川に滅し、十余年にわたった前九年の役は平定を見たのである。治暦4年(1068)勝利を得た将軍源頼義は源義家、清原定広、藤原景道、平景政等に命じて社殿を建てこの地の守護神とした。以来、4月15日、8月1日の2回祭典を行い、秋の祭典には新米を神前に供えて、朝敵謀伏の祈願をこめることが慣習となり、「瀬峰早稲八幡」と呼ばれた。現社殿は慶長16年(1611)伊達政宗、造営奉行木幡松之助棟継、眞山民部次直、工匠植村三十郎継、刑部左衛門邦継に命じ再建したものである。明治8年村社に列し、同44年藤太神社を合祀する。
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