- 由緒
第89代後深草天皇の御代(鎌倉時代中期1256年)康元元年、神社北側隣接の西館館主三浦三郎義成氏が常洲鹿嶋神宮より御分霊を遷祀し、守護神としたと伝えられる。御祭神の武甕槌神は、神代に天照大御神のご命令により日本の国を統一された建国の大功神で、後に香取神宮の経津主神と共に国土を開拓された。こうした御神威を仰ぎ、祀られた。文治5年(鎌倉時代初期1185年)、義成氏の父君宮内郷忠義氏は、源頼朝公の奥州藤原泰衡氏を征伐の際、頼朝公摩下三浦荒二郎義澄氏に従軍し平定後、奥州奉行代官職葛西壱岐守清重氏の幕下となり、栗原郡金田庄堀口郷を賜り居館する。更に760貫文(1貫文は10石)の知行賜り、建久4年(1193年)義澄氏より太刀を拝領し以後、姓を三浦氏と改めた。現在の西館大場家の祖先である。第95代花園天皇の御代文保元年(鎌倉時代後期1317年)社殿祝融の災い後、館主義成氏の曽孫左京亮義朝氏は社殿再興する。尚義朝氏は現在住する旧家稲干場大庭氏の祖先である。禾来260余年西館の守護神並びに地域の守護神として崇敬される。室町時代末期天正年間に、兵火の為、被災する。郷民遺憾し、文禄2年(1592年)、協行復興し、造営竣功する。慶長4年(1599年)、館主三浦平左右衛門義信氏は、葛西大崎家没落の為知行没収され、伊達家の恒士となる。故に大場氏と改姓し子孫続いて居館する。爾後星霜鎮守り神として、士民の信仰極めて篤く明治10年(1877年)、社格村社に列せられる。昭和6年(1931年)、社殿腐朽荒頽を慨いた氏子総代長大庭経之輔氏自ら境内地用170坪と本殿造営費を奉納、更に氏子中挙って浄財奉納と労力奉仕に尽くし、昭和7年11月24日竣成される。当時の記録に「新社殿及び整備された境内は老古木や老杉と相まって真に霊場たるの感深し」とあり、「我国民精神の敬神崇祖の顕現なり」と氏子崇敬者の赤誠を讃えている。
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