- 由緒
平城天皇の大同2年(西暦807年)坂上田村麻呂が再び奥州に下向し、ここにら金神金山彦神を祀った。これが、八幡宮の地主神である。(太田南畝「一話一言」所収、金田八幡記録)。冷泉天応天喜4年(西暦1056年)8月、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が金田城の鬼門鎮護のため勧請したと伝えられ、金田荘の総鎮守として崇敬された。その後寛治(西暦1087年)の頃藤原清衡がこれを再興したと伝えられる。当社の社家は日枝神社と同様に、従五位下清原業隆でその子孫十二代を経て紀伊守祐隆が天授2年(西暦1376年)羽黒派修験道に入り紀伊守宥義と称し、その四世から清浄院と改め代々別当をつとめた。明治10年(西暦1877年)3月村社に列せられた。
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