- 由緒
源頼義父子出陣の際、清原成隆、中原清房、藤原正弘等に命じて、八幡の神輿をかつがせ、賊の退散を祈願させた。軍を動かす毎に神輿を移し、安置した場所に勧請して社を建てたが、この社もそのうちの一社で、安部貞任誅伐の際、康平5年(西暦1062年)の12月凱旋して此の地に軍をとどめ、翌年正月斐(あや)城で諸将士の年賀を受けた。それから御賀八幡と称するようになったという。有賀という地名のいわれも、これにによると伝えられる。正月17日、此地を出発するに当り、清原成隆に命じて此社にかしずかせ、天台宗寺院本孝山普養教寺を建て別当とした。又、祭田を寄附し「宮の下」と称したと伝える。境内に、源義家が、弓矢とたてかけたと伝えられる弓立、矢立の杉があったが、現在、矢立の杉(二代目)が残っている。現宮司の清原昌雄は、成隆の子孫であるという。社蔵記録、封内風土記に「成隆第三子清民部少輔清原秀隆、崇徳帝の大治2年(西暦1127年)丁末3月神主となる。普養教寺は後円融帝の永和(西暦1375年~1378年)以来荒廃す。秀隆十世孫清伊賀守業隆第二子伊賀守俊隆なるもの、始めて修験道に入り、三僧祗権大僧都法印と号し、普養教寺遺跡跡に移り、別当となりて以来連綿今に至る。源義家弓矢を社頭に献じ、又天正年中邑主葛西家臣渋谷式部本社を再興して崇敬を致す。」となる。明治7年村社となる。明治44年10月八坂神社を、更に翌月北野神社を合祀した。
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