- 由緒
桓武天皇の延暦年中、坂上田村麻呂の勧請にして天喜年中源頼義安倍貞任追討のため三迫屯ケ岡に滞陣中玉ノ井館主佐藤繁内に命じて当社に詣うで祈願するとあり後康平年中再興せしと伝えられる(口碑)。火災にかかること再度現社殿は寛永年中の御造営という(口碑)。明治7年村社に列す後、旧中野村内愛宕神社又伊豆神社、新山神社を合祀する。境内に隣接する山林中に小さいが15基程の円墳がある。名称廻立古墳群県内最奥北である。平成元年県埋蔵文化財により一基発掘する。其の際石器土器片等が出土している。又境内からも土器石器片又石斧なども出ている。境内につづく峯の上に川石(こぶし大)使用の石葺経塚10㎡(盗掘)あり。筒の三筋溝片がある(多賀城歴史資料館に貸している)。古代からの聖地と考へられる。神社の場所は旧中野村の最も北に位置し中野全体を見渡せる山の尾根の突端高台にありもともと祖霊の集まる羽山(端山)信仰の場所と考へられる。本来氏子の祖霊の鎮まる所である。こうした祖霊信仰の土台の上に降軍中央政権の北上に伴って八幡神社の勧請がなされたものと思われる。
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