- 由緒
天慶3年(西暦941年・平安時代)9月の勧請と伝えられる古社。その昔は「あんば」明神とも称された。天正19年(西暦1591年)に葛西氏の臣、千葉長門、中津山村内要害館に居を定め、同年8月同村明神山に社殿を建立し、以って村内の鎮守として祀る。文久元年冬、社殿、古器及び社蔵品の全部を消失する火災にみまわれ、当時の組頭、千葉三郎兵衛(千葉長門の末裔)が中心となって、村中の人々等と諮り、翌文久2年(西暦1862年)3月に神殿及び拝殿を再建し、同時に神位も正一位網場大明神と格を改められ、正現寺宝徳院が別当を命ぜられる。明治初年神仏分離令により村社と定められ、明治40年3月1日、神饌幣帛料供進社に指定される。明治42年4月8日、中津山村瀬ヶ崎鎮座の山神社を合祀する。境内地(明神山)は明神山遺跡・網場貝塚になっている。この場所から、縄文時代晩期(今から約2700余年前)のものと推定される「岩版」が出土している。昭和12年に国の重要美術品に、昭和36年に国の重要文化財に指定されている。(現在は石巻の毛利コレクション保管)。岩版が見つかった境内では、縄文土偶・石器・土器などのほか、縄文時代の貝塚密集地帯で、晩期の貝塚はシジミやタニシなど淡水生の貝が特徴となっている。
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