- 由緒
伏見天皇の正応2年(1289)3月、新井田領主千葉掃部、凶年が続いて領民の苦しみひとかたならぬことを憂い、当時下向してきた加賀国の増田掃部之輔、藤原春信と図り、上野国の二之宮・赤城大明神に祈願せしに神験あり。その年の9月、城の鬼門にあたる地を撰び社殿を造営し、この神を勧請し厚く祀る。以後、増田をして神勤せしめ、3月、9月の28日を祭日と定め領主親しく祭祀を執り行った。これは嘉吉2年(1442)3月28日、権大僧都一乗院清良の記すところである。増田掃部之輔より5代目の千代之輔に至り、羽黒派修験となり、赤城山一乗院清良と改め、光永寺と称した。天正の頃、新井田新左衛門尉、領主千葉氏に代わるに及び社殿を重修して信仰厚かりしが、のち社頭荒廃に及んだので、同社維持の為、当時黒沢の領主であった高泉筑後より畑代高80文の地の寄進を受けた。寛政9年(1797)9月、18世別当東海法印が社殿に大修理を加えたが、大風雨のため大破したので、文化14年(1817)4月、19世別当広道法印村民と図り金60両を醵出して社殿を再建し、安政5年(1858)3月、修理を加えた。明治3年6月修験を廃し、同8年10月村社に列格、同38年3月には本殿が新築され今日に至る。また、大正10年10月には神饌幣帛料供進社の指定を受けている。
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