- 由緒
古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、高皇産霊神の子孫天日別尊に亡ぼされる。尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。景行天皇25年、勅を奉じて武内宿禰が北陸及び東国を巡察、同27年帰朝して奏言するに「東夷に日高見の国あり、人勇敢にして土地沃穣なり撃って取る可し」とあり、同40年、皇子日本武尊は上総から海路陸奥に入り竹水門(七ヶ浜塩釜港附近)から日高見の国に到り賊を平定したとされている。この時、尊は武運を祈願し、皇祖天照大神を祀って日高見神社が建立されたと伝えられる。続日本記には、宝亀11年(780)「百済王俊哲等が賊に囲まれ桃生白河等の郡神十一社に祈る」の項に日高見神社の社名がありそれが初見とされている。桓武天皇の延暦21年(802)正五位上勲五等に叙し、続いて三代実録の貞観元年(859)「陸奥国日高見水神に従四位下を授く」とあるので、往古は北上川の水神を祀った社とも言われている。第70代後冷泉天皇の康平暦年中(1058~1069)源義家が安倍貞任討伐(前9年の役)の折、神殿を造営して日本武尊、武内宿禰を併祀し、祭田を寄進したとされている。社殿左右に祀る日本武尊、武内宿禰尊の二神像は寛永年間に造られたものである。安永風土記には「往年社地の東南を穿ちて神鉾三支を得た」とあり、嘉永3年(1849)には匂玉三顆を発見している。天正19年(1591)山内首藤、葛西の合戦の折り、兵火に罹って社殿、社蔵文書の一切を消失、宝永年間(1704~1710)に再建されている。当社は延喜5年(905)延喜式神明帳に登載されている延喜式内社で、奥州百座、桃生郡六座のうちの一社である。明治5年11月28日郷社に列せられ同40年2月、愛宕(字上九郎沢)同(字下道山)清川(字細谷)薬田(字薬田)初雷(字谷地)熊野(字袖沢)八幡(字九郎沢)の七社を合併、同年神饌幣帛料供進の指定を受けている。中古畿内、大和の国より藤原安比は、藤原蠏守、藤原稜威の二者を伴い来て社務の従事に当る。安比の家は国名を取りて姓を大和と改め、蠏守の家は日野、稜威の家は今野を名乗る。應永年間兵火に罹りて社頭並びに社領は奪略され、日野、今野両家は奉仕の道なく帰農したりしが、大和の遠裔はその職を踏襲、寛永年間から修験、聖護院宮門徒となり、鴻巣山東仙院の称号を受けている。更に石宝院、良国院と称し来たりしが明治維新の際、現称大和に復し累世社務に従事している。当代29代を数えて今日に至る。尚、現在の社殿は昭和25年造営されたものである。
- 地図
- 動画