- 由緒
本社の創祀については、天喜、康平中義家阿部貞任を討つ時、義家は三館の権太夫清衡を奥州の守護となし、八幡並びに保呂羽の御堂を造らしめたと伝え、文治2年(1186、鎌倉)秀衡の四男本吉四郎高衡にこの地を知行せしめ朝日館に住した際、修験和光山中将院(後の喜明院)をはじめて別当に任じたといわれる。このように本社は、朝日館の南向い惣葉沢に勧請せられたのであるが、爾来藤原氏の崇敬篤く祭祀の興業も行われたことは申すまでもない。寛政5年に至入塩入に御遷座され、明治8年には村社に列せられた。昭和35年5月24日チリ地震津波のため、拝殿並びに社務所に浸水し、境内の樹木は悉く枯死する被害を受けた。加うるに同41年9月の26号台風により再度の災害を被ったので、同44年6月復興委員会を設立して、御復興にあたり、同46年3月遂に工事を竣え鎮座の儀を行った。
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