- 由緒
当神社は旧郷社にして計仙麻(ケセマ)本郷7ケ村総鎮守の古社である。古老の伝えによると延喜式内神明帳にある牡鹿十座の一社、計仙麻神であると、しかし、往古の当地方は桃生郡であったが故に、その説を疑する声もある。鎮座地気仙沼湾は古くは鼎ケ浦といい、延喜式、文徳実録に見る計仙真(ケセマ)のケセは蝦夷語の終わり、又、末端の入江の意で海陸鎮護の神と祀られたと云われる。又、封内風土記によれば、嵯峨帝弘仁年中、五条民部菅原昭廣卿の長男、三位中納言菅原昭次(すがわらのあきつぐ)卿の草創によるもので、相模の国司であった昭次卿が故あって別れ別れになった妻子を捜し求めて、奥州に下るとき、出羽、羽黒の神に詣でて御分霊を拝受して計仙麻香久留ケ原(現鎮座地の九条)に留まり白山の社地の一所に祠を建て御分霊を祀り、妻子との再会を祈念せしところ、神の杜より飛びたてる霊鳥の導きにより首尾よく再会を成就したことに奉謝して、社殿を建立し、更には九重の塔を建立して、妻、玉姫の護り本尊、弘法大師作の聖観世音を祀り、九条寺、常楽寺、伝法寺等の寺を建てて、生涯この地に留まりて地方発展に功をなしたと伝えられる。後に大和の国の修験、有実法印が貞応2年この地に留まりて社殿を再興せると記している。この有実法印は秦氏三積少進行実といい、壮年のころ叡山に参籠し僧となり寛実と号した、後、修験有髪沙門となり名を有実と改め本村に下って羽黒の社を再興し別当となり、幕居に入りて自性院と称した。その子孫綿々と相伝えて今日に至る。いまは九条寺、常楽寺、伝法寺は衰えたがこの縁起に纏わる伝説、地名や屋号が多く残り、羽黒神社の隣接地に昭次卿の墓所、大塚神社が、昭次卿の館跡(現、気仙沼高校校庭内)に中納言神社が祀られてあり、中納言原、又、香久留ケ原と親しみ呼ばれている。
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