- 由緒
本社は、唐桑町の東南方に突出する岬に鎮座あり、気仙沼、大島の東凡そ4粁、遥か南に金華山を眺め、東北には綾里崎(気仙郡)を望む。宮城県の東北限で、その地勢は観跡聞老誌に「崎嶇盤旋而して竜蛇の尾を曳く如く」と記すように誠に尾崎の社号にふさわしく、且つ、社域は海洋に懸かって風光壮絶神気自からせまるを覚え、今、陸中海岸国立公園に指定されているのも故なしとしない。この社には、延喜式桃生郡の名神大社計仙麻大島神と尾崎神と御同座申し上げている。式内気仙麻大島神は、本社の東方、平坂に権宮があって海神である神降石(児置島)を祀る神事があった。即ちこの神の発祥の神跡である。嵯峨天皇の弘仁中(810~823、奈良)云々の古記録もあって古い社であることを証する。清和天皇貞観元年(859、平安)正月27日即位の際、従5位下より従5位上に昇叙された。(3代実録)延喜の制(927、平安)名神大社(延喜式、巻三、臨時祭285座の中)に班する。御崎神は、縁起、社伝、古記録等によれば、日向の外浦(宮崎県南那珂郡南郷町)鎮座の御崎神社を、飫肥城主伊東大和守左衛門祐時(57,000石)の後裔出雲守某七世社家王子氏年代は明らかでないが、戦時争乱の巷を避けて、神慮により神璽を報じてはるばる当郡津本に上陸、小社を建ててしばらく奉仕したが、花園天皇の延慶2年(元年とも1309、鎌倉)に至り、阿部休信(唐桑城主久信か)請願の験あって、今の地に社殿を造営して3月15日気仙麻大島神と御同殿に御遷座し奉る。別当寺御崎山竜厳寺ありしが後廃絶し、社家伊東氏17代大弐坊竜清から修験となり、千手院と称す。第28代法印竜源の時、別に良厳院別当職に就いたので、俗に両別当或は合別当といった。(千手院当主第37代伊東久、良厳院当主梶原重義)この両家は連綿相伝えて明治維新に至る。享保17年(1732、江戸)御崎神に正一位の「宗源宣旨」あり、神威いよいよ揚り、殊に気仙麻大島神は、計仙麻七郡の総鎮守といわれ、古来朝廷並びに庶民の尊崇篤く、近時国立公園に指定以来境内の整備を了えて荘厳を益し、又、観光者夥しく社域ますます殷賑を極む。明治2年日本武尊を合祀して社号を日高見神社となし、同8年村社に、同12年郷社に列格、同40年3月幣帛供進社に指定された。昭和46年11月歴史と伝統を重じて「御崎神社」と改称した。尚6月15日に行はれる崎祭は約200年鰹の大漁祈願を祈って創められた祭典である。当時の鰹船は和船で1隻に5名乃至12、3名が乗り込み1本釣りであり、唐桑には100隻も集ったという。この日當社前の海岸より上陸し、海浜で禊を行って参拝し、法印神楽を奉納し祈祷を受ける。神社では長さ6尺、巾1尺2寸程の白木の船を用意し、この船に神籬を立て神饌を供え、これを御座船とし、他の船は御座船を供奉し海上を廻ること3度、御座船の船頭はこの神籬船を海上に納めることを奉仕する。この頃各船一斉に遥拝して神事を終る。近時鰹漁も遠洋漁業となり参加する和船も少く、昔日の感がなくなった。また境内にタブの木が繁茂している。タブは樟の一種類で常緑の亜熱帯性植物で、分布の北限地帯である。
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